1967年日本初のフラメンコショーレストラン(タブラオ)として、それはシアターレストランの元祖として、スペイン本土そのままの料理とステージは万来の拍手とともに、驚きや感動をもって歓迎されました。
その由緒は開店直後から、秩父宮妃殿下、高松宮両殿下、三笠宮両殿下、現天皇陛下妹君島津貴子様がご来駕の栄を賜りましたことからもお分かりになることでしょう。
開店以来の総登場アーティストは750人以上。
スペイン人ダンサーのステージにこだわりを貫き、料理も厳選したスペイン食材を多数使用。
日本にいながら、入店の瞬間からスペインにトリップしたかのような非日常的な空間を創生し、多くのご愛顧を頂き今日まで幾重もの歴史を重ねております。
「東京に日本初のタブラオを作りたいから是非協力して欲しい」
スペインにいた私を突然訪れ、そうおっしゃった三好さん(エル フラメンコ オーナー)に顔を見てただただ驚いて見つめていました。半世紀近く前の出来事なのにまるで昨日のことのように思い出します。
三歳の頃から踊り始め、十七歳でスペイン舞踊に出会った私は、1960年私費留学生としてスペインへ渡りました。
三年間の血の滲む修業ののち、歌舞伎に外国人が出るくらい難しい状況の中、あらゆる困難を乗り越え、スペイン隋一のタブラオ・コラル・デ・ラ・モレリアで日本人でありながらスターとして踊るようになったのです。
ところが踊っておるうちに私の踊りはフラメンコの枠からはみ出していき、悩むようになったのです。
そんな時有名なアントニオ・ガディスのプロデュサー、パコ・レベスが私の踊りを観て言いました。
「日本人の貴女がスペイン人と同じ衣裳を着て、靴を履いて踊っているのは悲しい。フラメンコに枠は無いのだよ。」
数日後、彼はバルセロナのフラメンコフェスティバルにガディスと私を連れて行きました。
束の間の休日、海岸でサロンを纏い素足で走る私を見て「その姿こそ本当のヤス子だ。」と言ったのです。
私は裸足で躍ることにしました。踊りは大成功し、批評家達は「200年前のフラメンコだ。」と絶賛、多くの人たちからも愛され、特にアンダルシアのジプシーの人たちは特別に喜んでくれました。以来、私は「裸足の舞姫」呼ばれるようになったのです。
その後ニューヨークへ行く準備をしていた時、三好さんのお誘いがあったのです。ニューヨークか東京か迷いましたが私は三好さんに協力することにしました。これが運命の別れ道だったのです。
お店の作り方、舞台の組み立て方をお手伝いするのではなく、私のチームを編成して踊ることになりました。お店の名前は、1年前日本全国公演をした時の私の舞踊団の名前をそのまま付けました。それが「エル フラメンコ」です。
私の当時の恋人は、ジプシーのギタリスト、ディエゴ・アマーヤでした。その為、エル フラメンコには、彼の家族・親戚が来ることになりました。有名なテレ・マヤとハリート・モントヤはじめ、従兄のビィエンベニード、妻の踊り手ラ・コネッハなど
一族で固まっていました。そこに三好さんが「どんなにギャラが高くてもこの人が来なければお店は成功しない。」と言って契約したホセ・ミゲルも加わりました。
私たちは全員同じアパートに住みことになりました。奥さん同伴のディエゴ。独身のパートナー、ホセ・ミゲル。そして自由奔放な私。まるでお定まりのように、私はディエゴを裏切ることになったのです。ジプシーの人を裏切るとその一族郎党が復讐を図ると言われています。私の場合も同じでした。とうとうある夜、ビィエンベニードが「ヤス子を殺してやる。」とナイフ片手に飛び込んできました。ミゲルも傍らにあった出刃包丁を持って立ち向かい、アパート中大騒ぎになってしまったのです。近くの交番から警官がやって来て事無く済んだのですが、私たちは次の日から、エル フラメンコを立ち去らねばならなかったのです。
私はスペインに帰り11年間ミゲルと共に踊り続けました。40歳の時来日しサロメを踊った際、マネージャーに逃げられ、私はスペイン人と共に帰りの飛行機代に無いままで放り出されました。友達からお金を借りて、やっとの思いでスペインの人たちを帰し、私はひとり東京に残りました。以来フラメンコは踊れなくなり、私はロック、長唄、お経で踊ると言う独自の道を歩み始めたのです。
それから長いときが過ぎました。20年近くが経った頃、私を支えてくれた人たちから「やっぱりヤス子のフラメンコが見たい」と言う声が高まり、その熱い思いに応えようと再びフラメンコを踊る決心をしました。
スペインの人たちを飛行場へ迎えに行った時、初めて会う人たちなのに云い様の無い懐かしさ、自分の家族と再会できたような気がしました。そしてそれまで敷居の高かったエル フラメンコに行きました。まるで駆け落ちした娘が実家に戻るような気持ちで。でもお店の人たちは私を温かく迎えてくれました。昔からの人、新しい人、みんな優しかった。昔三好さんから頼まれて私が買い集めたお皿も殆どがそのままでした。
~エル フラメンコは私の家~
烈しく、熱く過ぎ去った私の青春が、今でも息づいているところです。ただひたすらに踊り続けていた私。ここにいると、ここで毎晩繰り返されてたドラマのような一コマが蘇ってきます。私は、昔の若かったころに戻り、世間の荒波の中で失いそうになる自分を取り戻すのです。あの頃のように何も考えず火の様に踊り続けたい・・・。
1967年に新宿に開店して以来、エル フラメンコは日本のフラメンコを根底で支える場です。
バイレとカンテは言うに及ばず、ギターの世界にも多大な貢献をもたらしました。
フラメンコの魔力にのめり込む人が大勢生まれ、来日出演者に教えを乞い、様々な潮流を作る場となりました。ここに匹敵する規模のタブラオは現在のスペインでも多くありません。
フラメンコの本質たるものを芸術の高みにおいて見せる。40年以上もの間これを続けるのは、並大抵のことではなかったでしょう。クリスティーナ・オヨス、エバ・ジョルバブエナ、サラ・バラス等、名を挙げれば切りがありませんが、スターと呼ばれる人達の旬の煌きを日本に伝え、彼らの煌きを東京に残し、観客をフラメンコの虜にする橋渡しの役目を果たしてくれた、それがエル フラメンコです。
スペインの芸術家たちに会い、交流を深め、今日では日本がフラメンコの「第二のふるさと」とまで言われています。私個人に関しましても、10年間のスペイン滞在後、帰国直後に出演させて頂き、また開店35周年の折、当時出演中のラ・チーナと共に記念公演に楽しく出演させていただきました。
また、私の一番の思い出は敬愛するクリスティーナ・オヨスが出演中の1978年、私の劇場公演に特別出演して頂く機会を設けて下さったことでした。今も良き思い出としてたくさんの事象が胸を去来します。日本のフラメンコを今日の隆盛に導いた功績はいくら讃えても讃えきれるものでは有りません。
※右の写真は2003年にバルセロナ カタルーニャ音楽堂にて撮影。
CONCHITA DEL MAR
コンチータ・デル・マール
JUAQUIN GRILO
ホアキン・グリロ
SARA BARAS
サラ・バラス